ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編11〜インドネシア 「超」親日国インドネシア〜第2章

第二次世界大戦勃発、そして・・・

1939年、ドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに第二次世界大戦が勃発しました。

イギリスやフランスはポーランドの側に立ってドイツに宣戦布告しましたが、インドネシアの宗主国のオランダは中立を宣言し、戦火から逃れようとしました。

しかし、その願いは虚しく、1940年にドイツはオランダと隣国のベルギーに宣戦布告。

フランスに侵攻するための「道路」として軍事侵攻を受ける形となり、圧倒的な戦力を持つドイツ軍の前に一週間ほどでオランダ全土が占領され、オランダ王室はイギリスに亡命、イギリスにオランダ亡命政府を樹立し、行政・軍事機能の中心はインドネシアにある、オランダ植民地政府に移りました。

本国を失った植民地政府は、イギリスとアメリカの加護を求め、当時、英・米と対立していた日本を経済的に包囲して追い詰める政策、所謂「ABCD包囲網」に加わり、石油や天然ゴムを禁輸し、更に米軍とオーストラリア軍含む英軍の駐留を受け入れ入れました。

やがて資源封鎖に耐えきれなくなった日本は、1941年12月8日にハワイの真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦に参戦します。

日本軍は開戦と同時に欧米の植民地と化していたアジア・南方の島々に侵攻、破竹の勢いで侵攻していきます。

1942年1月になると、インドネシアにも石油・天然ゴムを求めて日本軍が侵攻。

日本軍はインドネシアに駐留していた米・英・蘭・濠軍を2ヶ月足らずで打ち破り、インドネシア駐留の連合軍は降伏し、日本は1942年3月、インドネシア全土を占領しました。

こうして、インドネシアにとってはあまりに唐突に「オランダによる350年のインドネシア支配」が実質的に終わりを迎えました。

日本統治下のインドネシア

日本は、本音としてはインドネシアの資源を確保することでしたが、建前では「アジアの解放」と謳っていたため、インドネシアを独立させるために動きます。

特にインドネシア攻略軍団・占領軍の総司令官の今村均将軍は人格者として有名で、インドネシア人のための改革を次々と断行していきました。

日本は、オランダ人がインドネシア人に対して行なった愚民政策と違い、誰でも通える学校と公務員養成校、師範学校、医科大学などを開校し、インドネシア人に広く義務教育と高等教育を施し、インドネシア語を公用語と制定しました。

また、ジャカルタなどの都市にはインドネシア人も通院できる大病院を開院し、地方には診療所の建設していきました。

更に、流刑となっていたスカルノ、ハッタら指導者を解放し、独立を準備させました。

このような日本軍に対してインドネシア住民は、解放者として歓迎し、持て囃しました。

しかし、今村将軍の考えは、独立はあくまでも自らの手で勝ち取るものであるというもので、日本軍はインドネシア人による国防組織、「PETA」を創設。

初のインドネシア国軍とも言える、PETAには総勢約4万人の若者が集まり、日本軍将兵から訓練を受け、非常に強力な武装組織となります。

このPETAが後に大きな役割を担います。

しかし、このような今村将軍の優遇政策には流石の日本軍上層部も「甘やかしすぎだ」と苦言を言われるようになり、最終的に日本軍上層部は、それでも上層部の意向に従わない今村将軍を最前線へと転任させてしまいました。

この後、終戦までの約2年間は、今村軍政にうって変わって厳しい軍政が敷かれることとなり、「ロームシャ」と呼ばれる低賃金での重労働をさせるためにインドネシア人を半ば騙す形で過酷な現場に送り込んだり、無理な経済システムを無理やり導入して経済崩壊を引き起こしたりと多くのインドネシア人にとって辛い期間が続きました。

しかし、現地に駐留している日本軍将兵達は自身にできる範囲でインドネシア人達を助けたり、PETAを更に訓練し、精鋭化することで、上層部に対する圧力団体(もしPETAが反乱を起こしたら大変だという圧力)とし、現場を知らない上層部が計画した行き過ぎたインドネシア人への搾取を共に食い止めようとしました。

このような、上層部に逆らった現場の日本軍兵士とインドネシア人との交流が、今日のインドネシアの親日観の基礎であったと言えます。

第3章に続く・・・

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