ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編11〜インドネシア 「超」親日国インドネシア〜第1章

皆さん、スラマット・ソレ!(インドネシア語でこんにちは)

インドネシア最大の空の玄関、スカルノ・ハッタ国際空港ですが、インドネシアが独立した際の初代大統領「スカルノ」と、副大統領「ハッタ」の両名の名前をとって名付けられています。

因みに、「スカルノ」、と聞いてどこかで聞いたことがある、という方もいらっしゃるでしょう。

日本でも有名な、資本家であり、タレントの「デヴィ夫人」は、初代大統領スカルノの第三夫人で、本名を「デヴィ・スカルノ」といいます。

初代大統領が、日本人を自身の妻とする程、インドネシア人の日本に対する感情は非常に良いものでありますが、それには日本とインドネシアの深すぎる関係史があるのです。

今回は、何故インドネシアが非常に親日的な国となったのか、その理由を説明していこうと思います。

インドネシアは元々オランダの植民地

インドネシアは、1609年から1949年まで、実に300年以上オランダの植民地でした。

オランダはインドネシア統治中、インドネシア人にコーヒー、サトウキビ、茶、タバコなどの生産を命令し、殆どタダ同然で取り上げるという「強制栽培政策」を行いました。

インドネシア住民がノルマ通りの作物を納められないと処罰をしたり、必要最低限分の食料を強制的に取り上げたりしたので、度々飢饉が発生し、多くのインドネシア住民が死亡しました。

また、インドネシアは天然ゴムや石油、鉱物などの天然資源にも恵まれており、オランダは巨大なプランテーションや鉱山を作り、そこで多くのインドネシア人を使役しました。

19世紀半ばになると、この強制栽培政策、強制労働は大幅に緩和されることになりましたが、インドネシア人に対する、教育、医療、下水道の整備など、諸インフラの整備は殆ど行われておらず、支配者である白人と白人と現地人の中間管理職的立場にあった華僑(中国人)以外のインドネシア人は酷く貧しい生活をしていました。

1904年から1905年にかけて行われた日露戦争にアジア人国家の日本が勝利すると、インドネシア人達の間で独立の機運が高まり、ちょうど同じ頃に、給料の安い現地民下級職員を増やし、オランダ製品の購買力を増やすためにオランダが行なった倫理政策(一部のインドネシア人の下級公務員登用と教育機関への入学の許可)を利用し、一部の裕福な家庭の独立を夢見るインドネシアの若者が小・中学校に入学し、在学中、卒業後と独立運動を主導していくことになります。

その中で独立運動のリーダー格となったのが、スカルノとハッタでした。

インドネシア人の民族自決、独立を叫ぶ彼らはインドネシア人の支持を勝ち取り、大規模な演説集会やデモを行うようになりました。

しかし、当然、そのような行為はオランダ当局に目をつけられる結果となり、2人ともオランダ当局に逮捕され、流刑となり、獄中で数年間を過ごすことになります。

独立運動の指導者が逮捕され、インドネシア独立は絶望的だと多くのインドネシア人が諦め掛けていた頃、インドネシアの運命を左右する出来事が起こります。

その出来事とはいったいなんでしょうか?

第2章へ続く・・・

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