ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編11〜インドネシア 「超」親日国インドネシア〜第3章
インドネシア独立戦争
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えました。
ボルネオ島を除くインドネシアの領域内では連合国軍の攻撃が殆ど行われなかったため、駐留日本兵もインドネシア人も日本が負けたことを実感できなかったと言います。
日本が降伏したことにより、独立の悲願が無に帰することを恐れたスカルノは日本降伏の2日後の8月17日、インドネシア独立を宣言しました。
しかし、旧宗主国のオランダはインドネシア独立を認めず、再び植民地化しようと軍隊を差し向け、スカルノ政権を鎮圧しようとしました。
そうしたオランダの動きに対して、日本が降伏後に解散となったPETA出身者らが立ち上がり、再集結してインドネシア国軍を組織しました。
この時、日本軍は降伏して武装解除したものの、武装を連合国軍に引き渡さず、「重火器はインドネシア人に奪われてしまった」とインドネシア国軍兵士が武器を取っていくのを眺めるだけという、事実上武器の横流しを行なって日本本土に帰国していきました。
また、約3000人の日本軍将兵が日本に帰国せず、インドネシア国軍に合流し、インドネシア人と共に独立を勝ち取るためにオランダ軍と戦いました。
残留日本兵は常に最前線で戦い、1000人以上が戦死したといいます。
日本軍の武装を手に入れ、多くの残留日本兵が合流したインドネシア国軍は非常に強力な軍事組織となり、本国が戦時中に荒廃したオランダ軍は非常に厳しい戦いを強いられる泥沼の戦いとなりました。
泥沼の戦いは4年間も続き、独立戦争末期には目立った戦果を挙げられなくなったオランダ軍が一般の集落を襲い、民間人を虐殺して回るというようなことも起きました。
当然、そのような事をしているとオランダは国際的に非難される事となり、加えて、この頃にはアメリカとソ連の二大超大国が睨み合う冷戦の時代に突入していたこともあり、西側陣営への敵対心(オランダはアメリカ側の西側陣営国)が高まることによってインドネシアがソ連寄りの共産主義国になることを恐れたアメリカに独立承認をするように迫られました。
その結果、1949年12月、ハーグ円卓会議(オランダ・インドネシア円卓会議)によって、インドネシアはオランダから独立承認を得ることができました。
このような経緯からインドネシアの人々は非常に親日的であり、独立戦争の時に戦死した1000人以上の日本人はカリバタ英雄墓地他、国立追悼施設に埋葬されており、今現在も多くの花が絶えることなく供えられています。

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