〜あの日見た飛行機雲〜 国際線機長40年の想い 第六章

リンドバーグのスパイ説

1902年2月生まれのリンドバーグは「スピリットオブセントルイス号」で1927年5月20日の早朝、ニューヨークのルーズベルト飛行場を離陸し、5月21日夜の10時過ぎにパリのルブルジェ空港に着陸しました。

この初めての大西洋単独無着陸横断飛行は、飛行距離5810キロ、飛行時間33時間29分余りという長時間のフライトでした。

1929年にリンドバーグはアンモローと結婚しています。 

アンはリンドバーグの勧めでパイロットや無線通信士の技術を身に着け、その後の夫の種々の飛行に乗務員として同行しました。

その当時、マイアミの一地方航空会社であったパンアメリカン航空を大きく発展させていた社長のトリップはリンドバーグを顧問に迎えて航空路の拡大を図りました。

その一つとして1931年に北太平洋航路の調査のため、ニューヨークから中国までの飛行を計画しました。

しかし結果としてはこのリンドバーグが開拓を目指した航路は、気象条件が厳しく、当時航空路として使うことは実現しませんでした。

この航路調査はニューヨーク・カナダ・アラスカ・日本・中国まで、「ロッキードの水上機シリウス号」で飛行するものでした。

途中8月23日に日本の国後島、24日に根室市、25日に霞ケ浦、その後大阪、福岡を経て中華民国の南京、漢口まで飛行しました。

この間の飛行記録はアンモローが残していて[North to the Orient](邦訳「翼よ北に」)に詳しく記されています。

この間9月19日に福岡を中国に向けて発つまで、日本の四都市に滞在しました。

リンドバーグ夫妻の日本滞在について、当時の逓信省や陸海軍の関係者が来日前に会合を持ち、飛行経路や着陸地点、歓迎行事などに関する申し合わせが行われた記録が残っています。

航空路開設のための技術者集団や随行記者も、米国人だけでなく諸外国の記者も多く来日し、行程に合わせて中華民国に彼らも足を延ばしておりました。

そして勃発したばかりの満州事変に関する情報収集や発信を活発に行ったりもしており、ニューヨークタイムズの記者は本国に、中国における日本軍の釈然としない動向についても書き送っています。

当時世界各国、鉄道に軍隊が積極的に経営介入し、事実上軍隊の傘下にあったように、航空関係も軍や国家の戦略に大いに利用されていたのです。

実際のリンドバーグを知るレアな日本人

私は実際のリンドバーグを知る人物とお会いしたことがあります。

実名は伏せさせていただきますが日本の航空業界の発展に大きく貢献された方で、K氏と書かせていただきます。

1931年当時、逓信省から軍に委託されて訓練を受け、逓信省乗員養成所の教官として後輩の訓練に当たっていたK氏は、北海道からリンドバーグ夫妻の飛行に付き添い、先導したといいます。 

先導というと聞こえは良いですが一種のお目付け役で、決められた航路から離れないよう、軍事目標となる箇所に近づかないようにするのが主目的でありました。

この背景には当時一部で言われていた「リンドバーグスパイ説」があったといいます。

スパイ説の出た一つの根拠は7月29日にニューヨークを出発して、霞ケ浦に着水するまでに12300キロを28日かけて18回着水し、総飛行時間は80時間23分を要したと記録されており、日本に近づいては、千島のケイト島、択捉島、国後島と次々に着水しました。
このように根室に着くはずのシリウス号が国後島に予定の無い着水を繰り返したことからスパイ説が広まったと云われています。 

しかし後に根室港でリンドバーグ夫妻を待っていた人達の、当日は濃霧で音は聞こえたが降りてこなかった、という証言があり、更に引き返して国後島の湯沸湖に着水して近くの住民の小屋に泊まって翌朝出発した、という事実も出てきている。

国後島まで15回着水したことに成る訳で、1700キロの航続距離を持つシリウス号にとって着水が多い気もします。
しかし夏の終わり頃から徐々に季節風が強くなる北太平洋では、低気圧の通り道でもあります。

天候に恵まれないと、地形の知らない航路は厳しく、島影を求めて着水が増えたのではと思われます。

この様なことからもリンドバーグという人は充分な準備と「慎重」さの上に、大西洋横断という快挙が出来たのではと想像させられます。

日本国内を先導したK氏は私達が航空大学に居た頃の校長で、もう飛行機には乗っておられませんでしたが、温厚で身だしなみの良い学者の風貌を持っていました。

何回か自宅に伺った折には必ず、勿論お酒も入っておられるのですが「前回も拝見しました」と言っても「リンドバーグと一緒の写真」を見せられ、当時の話を聞かされたものです。

同じ飛行機乗りとして技術的な話はしても、なにかを探っていると感じたことは無く、ただ軍の基地などには近づかない航路を取っていたと話されていました。

米国としてはパンナムの航路開拓に便乗して、未だ不明の多かった日本や中国の事情を、技術者集団や報道関係者によって明らかにしたい思いは在ったと思われます。

リンドバーグのその後

リンドバーグは日本に来る前年に生まれた長男を北太平洋航路飛行の翌年の1932年3月に誘拐され5月には死亡しているのが発見される悲劇に会っています。

第二次大戦前、リンドバーグは米軍の要請でドイツにも何度か旅行し、独空軍に関する報告も行っています。 

その過程で1938年にはドイツから勲章を授与されたり、米国ではナチス党と親密すぎるという批判を受けたりもしました。

また米国内では、「アメリカ独立主義とドイツの政策」に対しての支持者としての主張を行ったことによって、親独派と見られ米国航空隊での委託は解除されたりもしています。

1941年日本との開戦でリンドバーグは、空軍への復帰を試みましたが拒否され、軍人としては受け入れてもらえませんでした。

ですが軍の後方支援活動の一環としてP-38(戦闘機)での長距離航法の開発や航空機の離陸方法の研究で軍への貢献もしています。

余生は妻のアンモローと共にハワイのマウイ島に住み、自然保護活動に力を注いで1974年8月に72才で静かに亡くなりました。

第七章6−1に続く・・・

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