〜あの日見た飛行機雲〜 国際線機長40年の想い 第五章

ジェット旅客機コメットの教訓

1953年、1954年にかけて英国デハビランド社が4機製作した、世界初のジェット旅客機コメットMK1に連続して空中爆発と思われる事故が発生しました。

当時事故原因については色々な憶測を呼んだが、時の首相ウィンストンチャーチルが徹底解明を指示しました。

海底探査も行って、部品も100%近く回収するなど国家を挙げての調査が行われ、その結果、与圧客室の内外圧差による、金属疲労の可能性が指摘されました。

それまでのプロペラ機(レシプロ機)では機内と外気の気圧差は0.4気圧位なのに、コメットでは高空飛行を考慮して0.58気圧と大きく設定されていたのです。

0.58気圧は1平方メーター当たりの圧力は6トンにまで達します。

またアルミ合金は鉄に比べてリベットの穴や傷に反応し易く、強度が低下する原因にもなっていました。

通常、航空機は高度が高くなるに従い、機内に送り込む空気圧が増えます。

現在のジェット機の常用高度(10Km前後)では、地上の空気圧とは違っておおよそ2000m級の山上の空気圧に等しいです。

加圧水槽での試験の結果、これらの疲労破壊の原因がはっきりし、以降の旅客機の機体開発には2機の完全な機体を使っての静強度、耐久性評価試験を受けるようになりました。

合わせて「フェイルセーフ」という一部の機材の破壊が、残りの部材に広がらないようにする設計思想が生みだされるようになりました。

また改良型の「コメット2」では胴体外壁材の厚みが増やされたり、客室の窓の開口部の角を丸くして、応力の集中を防ぐ亀裂対策を行いました。

この様な対策はコメットに留まらず、その後の航空機開発に生かされるようになっていったのです。

初期生産型コメットは引退し、改良型コメット2は13機完成しましたが、失墜した評価は回復せずJALやPA(パンアメリカン航空)など各国の航空会社の注文は取り消されてしまいました。

コメットは新たに「コメット4」で1958年10月にBOAC英国航空により、世界で最初の無着陸での大西洋横断(ロンドンーニューヨーク)に就航させましたが、この四年間のブランクの間にB707,DC8,CV880といった100席以上の米国製ジェット機がデビューしていたため、コメット4は1964年に79機の製造で幕を閉じてしまいました。

私が見た、事故再発防止のための努力

1967年、我々何人かのB727のFOがDC8の限定変更訓練(国家試験を含む)を米国オークランドに在ったTIAというチャーター会社で受けました。

当時、旧JALの機材と訓練枠が一杯、しかしDC8のFOの絶対数が足りないという背景がありました。
機材と教官はTIAで、訓練のシラバス(訓練要綱)は旧JALの規定に従っていました。

その時のMという教官はツルツルの頭に毛皮の帽子を被った、豪快な感じの空軍出身の人でした。
DC8の旅客機で、こんな事も出来ると90度バンク(通常訓練は45度まで、90度では高度は維持出来なかったが)デモンストレーションし、我々訓練生はその技量の高さにただ驚いていました。

オークランドでの訓練を終え2,3年経った頃、TIAの飛行機(DC8)が米国の地方空港で乗員と仕事帰りの乗員12,3人が亡くなったというニュースを知りました。
その機長名は教わった例のM氏でした。

暫くして米国の事故調査委員会(NTSB)の報告書を読み、驚かされました。

現在のようにボイスレコーダーやフライトレコーダーの完備されていない時代でしたが、尾翼の水平安定板(ホリゾンタルスタビライザー)と昇降舵(エレベーター)の間に、誘導路のアスファルト片が挟まったのが原因。と結論付けられていました。

まるでガストロック(地上で突風によって動翼が動いて壊れないように固定する装置)がかかった状態で離陸したことになります。

動翼の動きをチェックする手順は行っただろうに、その後に飛んだ破片が入ったのでしょうか?
滑走路の少し先に墜落した飛行機の残骸の中で、尾翼に挟まったままのアスファルト片が残っていたのでしょうか?

原形の残っていた尾翼からの大切なメッセージを、事故原因に結び付けた調査に感心したものです。

この事故原因を知って以降、地上滑走に当たっては最小の推力で誘導路を移動するように心がけ、後輩にも伝えていました。

事故原因の調査は、先ず残された物への検証や今までの常識に囚われずに「見る」ことの大切さと、二度と同じ事故を起こさせない事後対応に集約されています。

事故再発防止に対する航空関係者一人ひとりの執念が、今日の安全運行を実現させています。

第六章へ続く・・・

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