ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編12〜南アフリカ 人種差別の果てに〜第2章
南アフリカ独立
ボーア人の反乱、「ボーア戦争」が終結すると、イギリスの占領傀儡国として南アフリカ連邦を独立させました。
しかし、国会議員は白人のみに限定され、事実上、アフリカ人(黒人)に参政権はありませんでした。
その後も徹底した白人優遇政策が行われ、異種人感での恋愛の禁止、アフリカ人を強制的に指定された居留地に移動させるなど、人種差別を法制化しました。
アパルトヘイト
1929年の世界恐慌が始まると、南アフリカでも深刻な不況が発生し、生活が前よりも苦しくなった白人は怒りの矛先を黒人に向けるようになります。
そして保守的な政党、国民党が勢力を伸ばすこととなり、1948年に政権を獲得しました。
国民党は政権獲得後、更に人種差別政策を推進し、「アパルトヘイト(分離・隔離法)」を制定しました。
アパルトヘイト下のアフリカでは、黒人は職業の選択が与えられず、重労働・過酷な条件・低賃金を徹底しました。
教育も黒人と白人の共学は廃止され、初等学校でも義務教育を与えませんでした。
これに反対する黒人もいましたが、黒人が公共の場で集会することを禁じたために、アパルトヘイトに反対する黒人の人々は皆、逮捕されました。
逆に、白人には各種保障や高賃金など、手厚い保護を与え、非常に華やかな生活を満喫しました。
実際に、アパルトヘイト時代の南アフリカは世界的に見ても高いGDPと成長率を誇っており、「数字上」はとても栄えていました。
こうした事実を背景に、国外の人権団体などによるアパルトヘイトの批判に対しても、南アフリカ政府は「南アフリカは多民族が居住しており、それぞれの民族が独自発展を遂げるべきである。今日の南アフリカの発展は多文化共生主義に基づいた発展であり、アパルトヘイトは差別ではない。」と主張していました。
アパルトヘイトの終焉
50年続いたアパルトヘイトですが、ある1人の男が立ち上がったことによって終わりを迎えます。
その名は、ネルソン・マンデラ。
後に南アフリカ初の黒人大統領になる人物です。
マンデラは、若い時から反アパルトヘイト活動に参加し、1964年には国家転覆を企てたとし、終身刑を宣告されますが、不屈の闘志で獄中であっても解放運動を呼びかけ続け、そんなマンデラの姿に多くの黒人が胸を打たれ、「塀の中の指導者」となりました。
南アフリカの黒人たちの不満の高まりと、国際社会からの非難を無視できなくなってきた南アフリカ大統領のデクラークは、獄中のマンデラと会談し、釈放を約束。
1990年になってマンデラはようやく釈放されました。なんと、27年間に渡る牢獄生活でした。
出所したマンデラは国内の黒人勢力と海外の反差別勢力、そして良心を持った白人たちを上手くまとめ上げ、アパルトヘイト廃止に尽力し、遂に1994年4月、全人種が参加する選挙が行われることとなり、マンデラが圧倒的得票数を得て大統領に就任。アパルトヘイトは完全に廃止されることとなりました。
アパルトヘイト廃止後の混乱
アパルトヘイトが廃止されて、めでたしめでたし。とはなりませんでした。
ヨハネスブルグなど都市部を中心に混乱が広がります。
黒人たちは差別政策により、初等教育すら受けている人が少なく、ほとんど奴隷状態だったため総貧困状態でした。
アパルトヘイト廃止により、白人・黒人居住区間の移動制限が撤廃されたため、黒人の人々が職を求めて白人居住区に渡り、住み着くようになりますが、学がない彼らは仕事を得ることができず、白人に対する積年の恨みもあり、暴徒化。
黒人たちによる犯罪が急増し、国外へ逃亡する白人が続出。それによって更に景気が悪くなり、暴徒化する黒人が増えるという負の連鎖が始まりました。
加えて、「アパルトヘイト廃止による、平等な社会」という甘言に触発された、隣国のジンバブエやモザンビークといったアフリカ諸国の難民(不法移民)が大量に入ってくる事態となり、治安は更に悪化していきました。
そして現在も都市部、中でもヨハネスブルグの治安の回復は見られず、「世界で一番危険な町」と言われるようになってしまいました。
差別をすると負の連鎖が始まり、必ず自分達にも返ってくる。そして差別をした側もされた側も誰も幸せにならない。
南アフリカ、ヨハネスブルグはそうした教訓を私たちに教えてくれています。
