ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編7〜パラオ 永遠の絆〜第2章

第二次世界大戦とパラオ

1933年に日本は国際連盟を脱退後、日本はパラオを含む南洋諸島防衛の為に軍事施設を増築します。

その過程でパラオの島々には多くの海軍基地が建設され、その中でもペリリュー島に建設された飛行場は非常に大きなものかつ、戦略的価値が高いもので、日本の戦局が悪化した第二次世界大戦後期に、米軍はフィリピン奪還作戦の前段階としてペリリュー島の攻略を計画しました。

米軍のペリリュー島侵攻の情報は日本軍も察知しており、侵攻する米軍の規模は日本軍守備隊の十倍近く、火力に至っては数百倍という絶望的な差がありましたが、それでもペリリュー島を死守すべく、日本陸海軍はペリリュー島の防備を固めました。

そんな中、ペリリュー島のパラオ現地人たちには、他の島への疎開命令が下りました。

今まで友達、家族のように衣食住、苦楽を共にしてきた日本兵と共に戦うべく、多くの島民が戦闘員に志願し、遂には守備隊長の中川洲男大佐に島民たちが直談判をしました。

島民たちの直談判を聞いた中川大佐は、「我々、大日本帝国の軍人が、お前たちのような土人と共に戦うことなどできるか!」と激昂して島民たちを追い出しました。

それを聞いた島民たちは「この日本兵たちも以前自分たちを支配していたスペイン人やドイツ人と同じで、心の底ではパラオ人を見下していたのか」と心底悲しい気持ちになり、島民は皆、島を去る決断をしました。

島民たちが船に乗って島を去る日、誰一人見送りに来る日本兵・日本人はいませんでした。

「ああ、やっぱり歌を歌ったりして楽しく過ごしてきた時間はただの見せかけだったのか」と島民たちが落胆し、船が島を離れたその時、多くの日本兵たちが浜に走り出てきました。

そして、その先頭には島民を罵倒した中川大佐が。

日本兵たちは浜で島民と一緒に歌った歌を歌いながら、手を振って見送っていました。

その瞬間、島民たちは、あの言葉は自分たちを戦闘に巻き込まず逃すためにわざと言ったのだと悟りました。

その後、間も無く米軍の大軍がペリリュー島に上陸。

米軍の想定である3日で占領できるという予測を覆し、全く補給もない中頑強に防戦し、米軍上陸作戦史上最大の損害比率を与え、73日間も守り通し、ペリリュー島守備隊は玉砕しました。

こんなにも激しい激戦だったのにも関わらず、ペリリュー島での民間人死傷者は0人でした。

戦後、島に戻った島民たちが目にしたものは島中に放置されているおびただしい数の日本兵の死体でした。

島民たちはこれを一体、一体、丁重に回収し、涙ながらにお別れを告げた後、埋葬をしてくださいました。

私たち日本人は、このような歴史があったことを忘れてはいけないことと共に、パラオの、ペリリュー島の人々に感謝しなければなりませんね。

日本とパラオ、絆は今も

パラオは戦後、アメリカの統治下に置かれましたが、アメリカは所謂「動物園政策」を取り、教育、医療は与えるが、開発事業はしないという政策を1945年から1994年まで約50年間も続けました。

結果、パラオ人にとっての主な就職先は公務員で、多くの国民は勤労意欲が非常に低く、パラオの国としての収入をしめる殆どは外国人が行う観光業と世界から集まる補助金という有様に。

そんな中、日本政府はそんなパラオに再び産業を根付かせるために数百億円規模を投資し、パラオ国際空港のターミナル、島間を結ぶ橋、上水道整備など主要なインフラ整備を行い、現在では国際サンゴ礁センターを建設したり、マグロ漁獲設備を支援するなど、パラオ人が直接産業に携われる仕組みづくりを始めています。

このように、今現在も日本とパラオの関係は現在も密接であり、今後は更に近しい存在となっていくでしょう。

皆さんも機会があれば、ぜひ一度パラオに行って見てくださいね!

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