ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編7〜パラオ 永遠の絆〜第1章

皆さん、アリー!(パラオ語でこんにちは)

私は今、南国の楽園、パラオ共和国にきています!

パラオには、スカイマークがコロナ禍前に成田ーパラオ(コロール空港)間でチャーター便を飛ばしており、近い将来、定期便化する可能性が高く、日本人にとって、行きやすいリゾート地になりそうな場所です!

パラオは、日本人が行きやすいだけでなく、日本人が過ごしやすい国としても定評があります。

例えば、お客さんをパラオ語で「オキャク」、お金は「オカネ」、誕生日「タンジョウビ」と日本語と共通している言葉が多いのです。

中には、酒を飲む「ツカレナオース(疲れ治す)」、ブラジャー「チチバンド(乳バンド)」というユニークな言葉もあります(笑)

このように、日本語と同じ意味を持つ単語がパラオ語に多数存在していることと、何よりパラオ人の人々が非常に親日的なことから、日本人が過ごしやすい国とされています。

しかし、何故こんなにも日本語に近い言葉があり、人々は非常に親日的なのか。

今回は、その理由を説明していきたいと思います。

パラオは昔、日本領だった

現在では、パラオがどこにあるのかさえも分からない日本人が大多数になってしまっていると思いますが、実はパラオは1945年まで日本領だったのです。

パラオは、16世紀から行われた西洋人の太平洋進出と、植民地化政策によって、1885年にスペインの植民地となりました。

間も無く、スペインは国力が衰退し、1899年にはパラオをドイツ帝国に売却し、今度はドイツ帝国の植民地となりました。

ドイツは、農産物や島内で産出されるレアメタルには興味を示しましたが、パラオ人には全く興味を示さず、「動物」として接しました。

当然、ドイツは「動物」相手には一切投資せず、道路や水道などのインフラ整備や、パラオ人向けの教育機関や病院は一切作らず、ひたすらパラオの生み出す富のみを搾取して、パラオ人は無視し続けていました。

そして時は流れ1914年。

第一次世界大戦が勃発し、日本は英国など協商側陣営について、ドイツ帝国に宣戦布告し、アジア・太平洋地域にあるドイツ支配地域へ攻撃を開始しました。

その過程で、日本はパラオにも侵攻して占領し、第一次世界大戦終結後、1919年のパリ講和会議で国際連盟は日本にパラオを就任統治領として管理するように要請し、日本はこれを受けてパラオを自国領としました。

日本は多くの日本人を移住させ、ドイツの統治下では全く進んでいなかった学校や病院、各インフラ整備を始め、島民たちをあらゆる形で経済活動に参加させ、近代的経済を根付かせました。

この時に日本語教育も行われ、その影響で今日のパラオ語には多く日本語が残っているのですね。

日本とパラオ、戦前の交流

日本が国力を高めていった当時、1924年にアメリカで制定された排日移民法を代表に、当時の国際社会では「黄禍論」という、黄色人種(アジア人)脅威論が流行しており、日本人労働者がアメリカなど諸外国に行くことが難しくなっていました。

そこで新たな日本領となったパラオに1920年代から1930年代にかけて多くの日本人が訪れ、パラオを開拓・開発していきました。

日本人たちは、軍人、民間人問わず、パラオ人たちを同じ人間として受け入れ、共に働き、共に遊び、共にパラオを発展させていきました。

そうした日本人の態度にパラオ人は好感を持ち、未来を日本と共に歩んでいくことを望んだと言われています。

また、日本人もパラオの大自然で流れるゆったりとした時の流れ、そしてパラオ人の人々の暖かさを大層気に入り、多くの日本人がパラオでの永住を望んでいました。

しかし、平和な生活は長くは続かなかったのです・・・

第2章に続く・・・

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