ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編3〜千葉 成田闘争〜第2章

三里塚闘争の始まり

前章で説明した通り、三里塚には国有地が多く、土地の使用が容易ということでしたが、その面積は空港予定地の4割程度しかなく、その他三里塚の土地、更に一部、富里の農地にも被っていました。

しかし、政府は三里塚・富里住民に対して事前に全く説明が無いまま、空港建設計画を発表し、住民たちの反発を招きました。

政府は、空港建設計画発表後にようやく住民に対して保証金案の提示を行い、立ち退きの交渉を行いましたが、事前に地元調査も説明も無い間に勝手に決められた住民たちは完全に態度を硬化させており、一切政府の言い分には耳を貸さない状態になっていました。

政府の「彼らは引揚者の貧乏人だから多少金を払えばどいてくれるだろう」という楽観的な考えは打ち砕かれました。

政府としても、多額の投資を完了させている空港建設計画を今更、見直す訳にもいかず、反対姿勢を崩さない住民たちに対して、次第に高圧的な態度になっていき、交渉役の役人が住民に対して恫喝と捉えられるような言動もするようになりました。

それに対して、住民もヒートアップしていき、政府関係者や千葉県庁に脅迫電話や押し入っての直談判などが発生するようになっていき、凶暴化していきました。

そんな中、政府は空港建設が閣議決定してしまい、住民たちを完全に無視してしまう形になってしまいました。

すると、住民たちは徹底抗戦を唱え、建設予定地各所にバリケードを築き、自宅にある農具や手製の簡易武器を手に立て篭もりを始めました。

更に、住民たちの支援を掲げ、共産党や社会党が介入。自体はいよいよ大ごとになってきました。

1968年に入ると、政府は保証金・土地買い取り価格を引き上げ、穏便な買い取りを目指しました。

結果、住民の中で条件賛成派と断固反対派で割れてしまい、条件賛成派の人々が反対派住民に村八分にされたり、暴行を受けるなど住民同士の争いが発生し、住民たちの凶暴性は更に増していき、行政も、また住民自身も歯止めがつかない程になっていくこととなりました。

そんな住民たちの暴走状態に国会の議席を持つ公認政党でる共産党・社会党の革新政党は、本当に暴力沙汰になると今後の得票数、議席数に影響することが予想されたため早々に決別宣言を出して反対住民の支援を取り止めました。

これに失望した反対派住民達は、当時学生運動で名を馳せていた、学生中心で構成された新左翼を引き入れるようになり、これが悲劇の引き金となります。

新左翼団体の中には、学生運動の域を超えた、武力革命を主眼としたテロ団体も混じっており、そんな彼らを受け入れ、国と対決しようとしたら政府としても機動隊を出動させるなどの強硬策に出るしかなく、住民と政府の対立は決定的なものになっていきます。

そして、1971年。政府は遂に機動隊、重機隊を投入。反対派住民と合流した過激派との間で大きな争いが起きます。

これを火種に衝突はエスカレートし、自体はますます悪化の一途を辿っていくのです。

第3章に続く・・・

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