ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編3〜千葉 成田闘争〜第1章

みなさん、こんにちは!

JAMBOスタッフの伊藤です!

本日は成田国際空港(通称・成田空港)にきています!

成田空港は、乗り入れ航空会社は約100社、年間発着数は25万便以上と、羽田空港、関西国際空港と並ぶ日本を代表する空港です。

成田空港は、今でこそ世界に誇るハイテクな大空港ですが、離着陸の際、機内から成田空港の周辺を見たことがある方は田畑や森が広がっている風景を目撃していると思います。

実際、海外から初めて日本に来られる方は、成田空港に着陸する際、「日本(東京)ってこんなに田舎なの・・・?大丈夫かな?」と不安になる方も多数おられます(笑)

確かに、成田空港の所在地は成田ですが、世界的には「東京の空港」という考えが一般的なので、驚くのも無理はありませんね。

しかし、何故、田園森林地帯のど真ん中に巨大な空港があるという、ある意味不気味な光景が出来あがることとなったのか。

今の若い世代では風化してしまって、忘れ去られていますが、成田空港建設のためには血みどろの闘いが繰り広げられた歴史があります。

今回は、成田空港建設時に起きた、住民の建設反対闘争、成田闘争(三里塚闘争)についてお話ししたいと思います。

成田空港建設計画

そもそも東京には羽田空港があるのにも関わらず、何故成田空港を建設しようということになったのでしょうか?

日本には、1931年に開港され、1945年〜1951年までのGHQ占領期は米軍に接収こそされましたが、世界的にも大きな規模の民間飛行場である羽田空港がありました。

しかし、1960年代になると、日本は高度経済成長期に突入し、飛行機を用いた国際輸送の需要は年々増大していきました。

また、輸送機だけでなく、経済の成長に伴い、日本国民の中から、仕事や旅行で海外に出向く機会も多くなり、大型旅客機の需要も同時に増加していきました。

確かに羽田空港は当時世界最大規模の空港でしたが、旅客・輸送共に東京をはじめとした関東に集中している状態では、あっという間にキャパシティオーバーを迎えていました。

そこで、当初は羽田空港を新たに埋め立て拡張しようという案が立ちましたが、当時の港湾土木工事技術では大規模な拡張は難しく、加えて仮に拡張を達成したとしても増加した便の飛行エリアが米軍基地の管制区域に引っかかってしまうため、飛行場を拡張したところで発着便数はそんなに増やせないという問題がありました。

このため、羽田空港を拡張するよりも新たな東京国際空港を新設した方が手っ取り早いということになり、いくつかの新設地が候補にあがりました。

その内の1つが成田市三里塚、現在の成田空港のある場所です。

何故、この場所が候補地にあげられたのかというと、三里塚には、宮内庁所有の牧場(国有地)があり、その周辺には戦後に満州や沖縄から引き上げてきた開拓農民が多く居住していたため、土地取得が容易であると考えられたからです。

しかし、満州・沖縄からの引揚者である開拓農民は、戦後の混乱の中で政府からロクに保証も与えられず、借金をして食い繋いで三里塚の土地を開拓していき、自分たちの力で苦労の末になんとか貧しいながらも生活ができるレベルまでになったという状況で、三里塚住民たちは、そんな血と汗が染み込んでいる土地を易々と手放す気はありませんでした。

この、政府の土地の歴史を知らない無知・傲慢な計画と、土地にかける想いが熱すぎる三里塚住民の齟齬は歴史上に残る大暴動へと発展していきます。

第二章へ続く・・・

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