ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編3〜千葉 成田闘争〜第3章

反対闘争の激化

反対派住民と機動隊の衝突はエスカレートしていき、反対派住民に紛れ込んだ過激派組織の人間が更に住民達を煽り、反対運動は戦争の様相を呈してきました。

過激派に焚きつけられた反対派農民達は、過激派の人間と共に交番を襲撃し、警官を殺害したり、一升瓶を使った爆発殺傷力の高い火炎瓶を重機や機動隊員に投げつけたりと本格的に内戦状態に発展していきました。

この一連の反対運動で警察官、反対派住民共に多くの死傷者を出し、思うように土地収用が行われず、当初開港を予定していた1972年には遂に開港はなりませんでした。

その後も、バリケードに立て籠もる反対派住民を機動隊が大量の負傷者を出しながら排除したら、また別の場所にバリケードを築いて立て籠もるということを延々と繰り返し、開港予定日は1978年3月30日にずれ込みました。

数年にわたって反対闘争を繰り広げていた反対派住民ですが、国も鎮圧行動をする傍ら、住民と向き合う姿勢を見せ、手厚い保証案を出すようになりました。

結果、1977年までに、反対派住民の多くは長年に渡る不毛な闘争に疲れ、国から出された保証案も手厚いために、国の案に妥協し、保証を受け取って三里塚を去っていく住民が徐々に増えてゆきました。

反対派住民がどんどん離脱していき、最後まで残った人間の多くは、反対闘争支援のために合流してきた新左翼過激派の人間だけという有様になりました。

反対派住民の支援のために加勢したよそ者である新左翼が最後まで土地を守る闘争を続けるというのはなんとも言えない話ですね。

こうして、土地の所有者である殆どの住民達は国の保証案を飲み、土地収用は達成されていき、成田空港の建設は進んでいきました。

成田空港の開港日は1978年3月30日とされましたが、1978年3月26日、開港直前になって新左翼の過激派数十人が成田空港の管制塔に突入、それに呼応し、空港内に新左翼活動家数千人も侵入し、成田空港は騒乱状態になりました。

管制塔に突入した過激派たちは、管制塔内の機器を破壊して周り、出入り口を施錠し、立て篭もりの体制を築きましたが、機動隊とのもみ合いの末、鎮圧されました。

この事件により、予定されていた3月30日の開港は成らず、5月20日に開港は延期になってしまいました。

反対闘争の現在

成田空港が開港された後も、左翼過激派は滑走路延長線上にアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やして黒煙を発生させたりと妨害活動を繰り返しました。

更に、空港連絡列車として使用されていた京成電鉄車両に放火したり、国土交通省職員宅に爆弾を郵送するなどのテロ行為を繰り返し、旧三里塚住民だけでなく、国民達からの支持も一切得られず、左翼過激派特有の内ゲバ(構成員同士の意見の相違などによって、内部粛清が連続し、組織が内部崩壊すること)も発生し、徐々に衰退していきました。

現在では、空港周辺に少数の立て看板があるに留まっています。

現在では1日に10万人もの人が利用するようになったメガ空港、成田空港。

皆さん何気なく利用していますが、成田空港が今のように利用できるのは、このような歴史があり、先人達が大きな問題を乗り越えてきた証だと、記憶の片隅に置いておきましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です