ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編7〜宮城県 元祖「イケメン」伊達政宗〜

皆さん、こんにちは!

JAMBO スタッフの伊藤です。

今回私は、宮城県仙台空港に来ています!

仙台といえば、日本で最も美しい町の一つとして知られていて、別名、杜の都(もりのみやこ)と呼ばれています。

私も仙台出身の友達が何人もいますが、みんな口を揃えて「日本一美しい町だ」と言いますね!

現代になっても尚、地元の人たちに強いプライドを持たせる程素晴らしい都市、仙台は古代から戦国時代に至るまで千代と呼ばれており、人家は少なく、寂れた原野でしたが、関ヶ原の戦いが起きた1600年、当時この地を治めていた伊達政宗によって改称され、伊達政宗指示の元、城下町として発展していきました。

仙台の人ならば、誰もが知っている伊達政宗。

一体、どのような人物だったのか、説明していこうと思います。

元祖イケメン、その名は伊達政宗

政宗は1567年、東北の有力豪族である伊達家の長男として産まれました。

政宗は幼少期に天然痘を患い、右目の視力を失いますが、一命を取り留め、容姿端麗な秀才へ育ち、一族間の争いもあり、11歳には元服、13歳にして正室を迎え、15歳の時には初陣を飾っています。

その後、若くして伊達家の当主となった政宗は、次々に周辺諸国に侵攻、巧みな戦略手腕を発揮し1589年、会津を平定し東北最大の勢力となりました。この時、政宗は22歳でした。

この時の政宗は、非常に顔立ちがよく、仕事ができて南蛮物の羽織という最新のファッションを着こなし、更には趣味は料理という完全無欠のイケメンっぷりでした。(仙台名物、ずんだ餅は政宗が考案したものといわれています。)

産まれた時代が遅かった

当時の政宗率いる伊達家の勢いは凄まじく、正直、戦国中期くらいならば、そのまま南下し関東平定、更にそこから西進して天下を統一できていたでしょう。

しかし、政宗が東北を平定し終えた時期は戦国末期。

当時、既に豊臣秀吉が天下統一に王手をかけており、1585年には惣無事令(戦国大名間の領土紛争の禁止令。事実上の秀吉による天下統一宣言)を全国の大名に発令していました。

政宗は、この惣無事令を無視する形で東北を平定してしまったので、当然秀吉は怒ります。

秀吉としては、戦上手な若いカリスマが短期間で勢力を伸ばしたことが、自身の主君であった織田信長を彷彿とさせることから、政宗をかなり脅威と感じていたといいます。

そこで秀吉は政宗に攻略したばかりの会津を手放さなければ、軍事侵攻をすると告げました。

当時の戦国武将であれば、どんな小勢力でも、このような道理の通らない要求を飲めず、戦となり、秀吉もそれを望みこれを機に伊達家を滅ぼそうと画策していました。

政宗の考えとしては、南の関東に一大拠点を持つ、反豊臣の北条家と組んで豊臣勢力と戦おうとしていましたが、当時、北条氏の本拠地である小田原城は秀吉の軍勢に包囲されている状態で、北条氏が滅びた場合、伊達家が豊臣家に勝つ算段なしと踏み、秀吉に恭順の意を伝えました。

この時、政宗は「死装束」で自ら秀吉の元に出向き、頭を下げたといわれています。

この潔さに秀吉は心底感服し、宣言通り領地の一部を取り上げたものの、政宗に自身の旧姓である「羽柴」の名字を与え、政宗の器を讃えたと言われています。

秀吉に認められた後は、派手な装束で日本中の街に現れ、その風貌から日本中の女性のファンが多くでき、今でいうところの「イケメン」を指す言葉、「伊達男」の語源になったといいます。

派手でオシャレ、更に男らしいと完全無欠のイケメン伊達政宗。

現代においてもアニメ・ゲーム化されるなど、その人気っぷりは健在です。

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