ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編1〜福岡〜第2章

遂に元軍博多に襲来!その時鎌倉武士達は?

第1章で書いたような経緯があり、元は遂に日本への侵攻を決意し、1274年10月。

約4万人の元・高麗の連合軍が朝鮮半島南部から出航しました。

手始めに対馬に上陸し、これを占領。

本土に逃げ延びた武士の報告で元軍が迫っていることが発覚し、鎌倉幕府は至急、武士を九州に集める命を下しました。

続いて壱岐も同じく占領され、遂に元軍が博多湾に迫ります。

しかし、万全の防備体制が敷けていなかった幕府軍は元軍の上陸を許してしまい、元軍はほぼ無血での上陸に成功しました。

元軍はどんどん内陸部に進軍し、着実に九州を占領していきました。

対する一歩遅れた幕府軍は、博多の息の浜に主力を集結させ、陣を構えて元軍を待ち受けていました。

しかし、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が幕府軍の命令を無視して赤坂の松林に陣を構えていた元軍を襲撃。これが本格的な元軍と幕府軍の最初の衝突であり、この戦いを赤坂の戦いといいます。

この赤坂の戦いでなんと菊池武房の軍勢は元軍に勝利してしまい、赤坂の元軍は本隊と合流するために麁原山(そはらやま)まで撤退します。

ここの撤退中の元軍に会敵したのが、教科書でよく目にする「蒙古襲来絵詞」で有名な竹崎秀長の軍勢です。

竹崎秀長は、撤退中の元軍を迫撃しようと突撃しますが、馬が干潟に足をとられ、元軍を取り逃してしまいます。

しかし、諦められない竹崎秀長は本隊に合流せず麁原山まで移動。

その後、麁原山から出てきた元軍と竹崎秀長らの戦闘が鳥飼潟で始まります。これを鳥飼潟の戦いといい、竹崎秀長らは一斉に元軍へと突撃を行い、元軍を蹂躙。元軍はまたしても撤退しました。

撤退する元軍を着実に迫撃していき、百道原まで追い詰め、百道原の戦いで元軍の指揮官の一人である劉復亨が重傷を負い、元軍は船団へ撤退。その夜の会議で指揮官の脱落と戦力不足を理由に一時撤退が決まり、夜中に元軍は撤退していきました。

しかし、当時の船舶事情では博多から高麗に行くために「南風の吹く晴天の日中」でなければならず、それを知らない元軍は帰還中に高波に呑まれ、大きな被害を受けました。

この時に沈んだ船の残骸の多くが九州沿岸に流れ着き、所謂「神風伝説」は生まれたといいます。

「神風」の真実

「え?元寇って、日本側が大敗していたところを神風が吹いて何とか助かったという話じゃなかった?」と思われる方もいるでしょう。

現代にまで伝わる「神風伝説」。

これを流布したのは、当時の寺社の聖職者たちと言われています。

当時の日本では、戦乱だけではなく、飢饉や疫病などに対しても寺社による祈祷が行われていました。

元寇は上記のように、鎌倉武士たちが武力によって外敵を追い払ったのですが、当時、寺社の聖職者たちはエリートで、対する武士たちは「学のない野蛮人」という扱いで、ある意味、寺社と武士は対立していました。

そこで、聖職者たちは、貴族や信徒の一般民衆に「元軍を追い返したのは野蛮な武士ではなく、日本を守ってくださっている神様仏様だ。自分たちが祈ったからこそこの国は救われた。」と吹聴した結果、この「神風」の認識が日本中に広がってしまい、あたかもそれが事実かのようになってしまったのですね。

さて、元軍を退けた日本ですが、元軍は未だ日本占領を諦めません。

元は、高麗に再び船の建造を命じ、第2回目となる侵攻計画を練り、再び元軍が日本に迫ろうとしていました。

第3章に続く・・・

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