ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編1〜福岡〜第3章

鎌倉幕府による要塞建築開始!元軍の上陸を許すな

元の襲来を何とか撃退した幕府。

しかし、またいつ元軍が襲来してくるか分かりません。

次にやってくる時は、今まで以上の軍勢を率いてやってくるに違いないと考え、常に九州沿岸に防衛体制を敷き、次は上陸を許さないという戦略をとりました。

そこで始まったのが、元寇防塁の建設です。

元寇防塁は3年ほどかけられて博多の海岸線を囲むように築かれた石造りの壁です。

元軍といえども、この海岸線上に築かれた防塁を突破して上陸を果たすことは難しい要塞でした。

鎌倉幕府はこの万全の守りを固め、来たる第2の元寇に臨みます。

第2の元寇襲来、果たしてその結果は・・・

日本が防衛体制を固めている間、元軍は戦力の立て直しをはかっていました。

第2回日本遠征軍は元・高麗4万、旧南宋地域から集めた10万の大軍を編成し、日本に向けて出航しました。

弘安の役の開始です。

今回、鎌倉幕府は前回の反省を踏まえ、事前に元にスパイを送っていたため、元来襲の報は元軍が出撃したのとほぼ同じくらいに鎌倉へ届きました。

元軍は、前回と同じく対馬と壱岐を襲撃し、博多湾に進軍しました。

意気揚々と絶対の自身の元、博多湾に訪れた元軍の目前の浜辺に現れたものは、ズラリと並ぶ自身の身長の倍以上の高さがある防塁とその上にビッチリとかまえる武士。

それでも、元軍は何とか上陸作戦を成功させようと浜へ上陸を行いますが、防塁があって前に進めないため、浜はあっという間に芋洗い状態に。

鎌倉武士は防塁の上から、浜で身動きが取れなくなった元軍を弓で射たり、投石をしたりと殆ど一方的に撃破していきます。

攻撃を受け、一向に防塁を突破できない元軍は他の上陸地点を探すために撤退。

最終的に博多湾の北側にある、九州と陸で繋がっている陸繋島である、志賀島に上陸しました。

元軍としては、陸続きになっているこの島を占領することで、上陸の橋頭堡を確保したつもりでした。

しかし、これは幕府軍の罠で、博多上陸を諦めた元軍は防塁が無く、本土と陸続きになっている志賀島に上陸することを予想しており、元軍の上陸と同時に控えていた後詰めの軍勢が志賀島を包囲しました。

これにより、元軍は小さな志賀島に身動きができないほど密集された状態で包囲されるという最悪の事態に陥りました。

そして幕府軍による突撃が開始され、志賀島への攻撃と兵を下ろして手薄になった元船団に対しての斬り込み、海上強襲が行われ、結果、元軍は大混乱に陥り、斬り込まれた船に乗船していた将校も生け捕りにされてしまいました。

戦況不利とみた元軍は平戸島・鷹島まで撤退。

元軍は更なる増援を受け、戦力の回復をはかっていましたが、幕府軍は決戦を決意。

しかし、ここで台風が来てしまい、大損害を被ってしまいました。因みに、北九州に上陸する台風は年間3回以上あるので、3ヶ月以上も北九州の海上に停滞していた元軍にとっては、起こるべくして起きたアクシデントです。

元軍内では、予想外の幕府軍の抵抗と台風の影響による損害で、流石に指揮官たちの中から撤退を支持する声が上がってきました。

最終的に総司令官が撤退を決め、元軍は撤退していきました。

ちょうどこの頃、元内部で反乱が起きたり、大越国(今のベトナム)との関係悪化もあり、クビライは日本遠征の一時休止を宣言し、以降、再び元軍が日本に襲来することはありませんでした。

歴史を深く知ることの面白さ

今回の元寇も、教科書には「神風が来て日本が買った!」くらいにしか書いていませんが、少し調べると当時の状況だとか、先人がどのように苦難に立ち向かったのかを知ることができます。

たまには、学生時代にはさして気にならなかった歴史の1ページを「どうしてこうなったんだろう?」と疑問を持って調べてみるのもいいかもしれませんね!

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