ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編6〜岐阜県 関ヶ原の戦いの命運を分けたもの〜

皆さん、こんにちは!

JAMBO STAFFの伊藤です。

今回私は中部地方の玄関口、中部国際空港に来ています!

中部地方といえば、戦国時代、織田家、豊臣家、徳川家、今川家などと、誰もが必ず一度は聞いた有名武将がひしめき合っていた地域です。

それ故に、中部地方には多くの史跡があり、歴史好きにはたまらない場所です。

今回は、数ある中部地方の歴史の中で、1位2位を争って有名な合戦、「関ヶ原の戦い」について説明していきたいと思います。

関ヶ原の戦い

関ヶ原は中部国際空港から岐阜方面に電車を乗り継ぎ、2時間弱の地点にある、山に囲まれた平野です。

現在では岐阜県関ケ原町となっており、閑静な住宅街となっています。

今の姿からは想像できませんが、今から420年前の1600年、ここの地で「天下分け目の戦い」と呼ばれる「関ヶ原の戦い」が起きました。

関ヶ原の戦いは、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の死後、引き続き豊臣体制を維持せんとする石田三成率いる「西軍」と秀吉亡き後、今までのしきたりに反してやりたい放題に独自改革を行なっていた徳川家康率いる「東軍」が衝突した大規模な合戦です。

関ヶ原の戦いに参加した兵力は両軍合わせて15万人以上にものぼり、戦国時代最大の戦いとなりました。

関ヶ原の戦いの結果は、皆さんもご存知の通り、徳川家康率いる東軍側の勝利に終わり、戦いの後、家康の支配体制が確立、江戸幕府を開き、300年にも渡る江戸時代が始まります。

東軍の勝利に終わった事はよく知られている関ヶ原の戦いですが、実は兵力・用兵共に西軍の方が圧倒的に優勢だった事はあまり知られていません。

それでは何故、優勢な状況にあったのにも関わらず西軍は破れてしまったのでしょうか。

西軍の敗因は大将、石田三成の人望のなさ!?

石田三成は、長浜の寺小僧時代に鷹狩りの休憩に立ち寄った豊臣秀吉に「三献の茶」でもてなし、その気遣いと頭の回転の速さを認められて、秀吉の家来となりました。

秀吉の家来となった三成は、持ち前の頭脳を生かし、主に内政面で活躍しました。

領民に力の強い弱い関係なく、平等に耕作・採集の自由を与えることにより、均一的に効率よく税収を得る事に成功し、秀吉の財源を支えました。

三成の政策は常に民の生活に寄り添ったものであったため、農民たちからは非常に慕われていました。

また、三成が掲げる旗「大一大万大吉」は、「天下のもと、1人が万人に尽くせば、同じように万人が1人のために尽くせば太平の世が訪れる」という、戦国時代当時、士気を奮い立たせる勇猛な旗印が多い中、平和な太平の世を望む、非常に珍しいもので、多くの武士と民から人格者と一目を置かれていました。

しかし、内政面と人格面では優秀な三成は逆に戦いは下手であって、「強いものが全て」と考える武士が多かった戦国時代では、勇猛なタイプの武将から度々馬鹿にされ、衝突することもあったといいます。

また、三成の非常に真面目な性格が災いし、朝鮮出兵の際に後方にいる三成が、最前線で活躍していた加藤清正らの失敗を包みなく秀吉に報告したり、毛利輝元が秀吉に送った桃を「秀吉様の腹が壊れる」と突き返したりと、武将たちには非常に不人気で人望が無かったことが挙げられます。

他にも、太閤検地を行なった際に、武将たちの少しの間違いや不正を見逃さず、容赦無く秀吉に報告して処罰したことも多くの武将から怨みを買う一因となり、皆を監視して罰するだけ罰してその後のフォローやアフターケアも何も無かったことで今で言うところの「嫌な学級委員長タイプ」となってしまっていました。

そんな中、行われた関ヶ原の戦いで、西軍側は圧倒的な有利であったのにも関わらず、合戦が始まってみると小早川秀秋をはじめとする多くの裏切り者を出し、更に配置されていた各西軍の部隊も動かず静観しているという事態に発展し、西軍は総崩れに。
間もなく大将の三成は捕らえられ、処刑されました。

石田三成は、一生をかけた「天下分け目の決戦」で自身の人望の無さによって全てを台無しにしてしまったのです。

どんなに優秀で、仕事ができる人であっても、人望がなければ、いざという時に誰も味方をしてくれる人がいなくなって人生を棒に振ってしまう。
そんな教訓を関ヶ原の戦いは私たちに教えてくれます。

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