ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 国内編2〜北海道〜

皆さん、こんにちは!

JAMBO STAFFの伊藤です!

今私は、北海道のオホーツク紋別空港に来ています!

日本の空港なのに「オホーツク」なんて名前がついてるのは、とてもかっこいいですね!

さらに、「紋別」も元は「モ・ペッ」というアイヌ語「静かな川」という意味があります。

他にも、北海道には日本語以外の言葉を当て字にしたような地名が多くあります。

例えば、洞爺市や涛沸市。これはそれぞれ、「洞爺=トー・ヤ(湖・岸)」、「涛沸=トー・プッ(湖・口)」というアイヌ語からきています。

何故、こんなにもアイヌ由来の言葉が多いのか。

それは、ご存知の方も多いと思いますが、北海道には、つい100年程前まで多くのアイヌ民族が暮らしていて、独自の文化を形成していました。

今回は、アイヌの文化と歴史を書いていこうと思います。

アイヌ民族とは?

まず、そもそもアイヌ民族とはどのような人達なのでしょうか。

アイヌ民族は大和朝廷が成立する前から北海道に土着し、狩猟採集を行い、物々交換による交易をして生活をしていた民族です。

DNA的には、縄文人とほぼ同じとされており、本土の様々な渡来人と混血を繰り返した私たち大和民族とは全く違う民族です。

宗教は神道とは違う、アミニズム(多神教)で、多数の神々が宿る自然の中で、自分達も自然の一部として生きていく、という非常に精神的に進んだ価値観を持って生きていました。

日本領の異民族の先住民ということで、歴史的な経緯もあり、アメリカのネイティブ・アメリカンとよく比較されます。

アイヌの歴史

アイヌは古代日本と同じく、文字を持たない民族なので、文献や資料が日本を含む外国の文献からでしか知ることはできませんが、アイヌ文化として成立し、諸外国と組織的に接触をはかるようになったのは13世紀頃といわれています。

農耕民族である日本狩猟採取民族であるアイヌはそれぞれの生活様式によって確保した生産物を物々交換していました。

しかし、江戸時代になると、幕府は武力を背景に不平等な交易(幕府側はほとんどアイヌ側に与えていないので最早、略奪)を迫り、アイヌの文化は衰退していきました。

後にロシア人が北海道に上陸するようになると、幕府は北海道を日本領と公に主張するため、アイヌに対して同化政策を行い、アイヌと日本人が混在する場所ではアイヌの言語と文化を禁じ、それに従わない者は人が住めないような僻地に追放し、空き地となった場所に日本人を多数移住させるなどしてアイヌ文化の衰退を加速させました。

明治時代に入ると、アイヌの同化政策は最終段階に入り、「先住民の保護」を名目に「北海道旧土人保護法」が制定され、授業料の供与の代わりに全員日本人学校への登校を義務付けたり、生活支援金を供与する代わりに農業・漁業者は日本人の第一次産業従事者として登録したり、普通会社や炭鉱・工場労働者への転職を手伝ったりと、アイヌとしてのアイデンティティの喪失を加速させることによって、貨幣経済体制への合流をはかりました。

この政策は日本政府が一方的に押し付けたものでは無く、アイヌの代表者たちの要請を多く組み込んだものであるというのですから、明治に入ってからはいかにアイヌの人々も自身のアイデンティティを失っていたかが分かります。

アイヌの現在

現在、アイヌ民族は日本に約24000人いるとみられています。

しかし、自身をアイヌ民族であるというアイデンティティを持って暮らしている人は1000人程だと言われています。

最早、現在では自身がアイヌの血を引いていたとしても、文化の継承が殆ど行われていないため、自身の素晴らしいルーツについて考える機会が数世代前から無くなってしまっていることが現状です。

「日本は古来から単一民族国家」とよくテレビなどで聞くようになりましたが、「実は日本は多様な民族により構成されている国家」という認識を私たち一人ひとりが改めて歴史を振り返って意識することが多様性を求められる今後の未来に必要なことなのではないかと、私は思う次第であります。

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