ステイ先で学ぶ政歴シリーズ 海外編4〜アメリカ ジョン・F・ケネディ〜第2章

ジョンを変えた最前線

ジョンは、父親と海軍長官の手により、1943年に日本軍との戦闘が続く、太平洋ソロモン諸島に転属されました。

父親のジョセフは息子のジョンが命を落とす危険がある最前線には送らないように海軍側に厳命し、ジョンは太平洋戦線で比較的安全なソロモン諸島の後方基地に配属されました。

しかし、この頃のソロモン諸島近海は未だ米軍と日本軍が一進一退の戦いを繰り広げている時であり、米軍側も多くの船舶が喪失し、補充要員を多くつぎ込んでいる状態でした。

そのような状態で、海軍長官の目も隅々まで行き届かなかったのか、本人の希望もあり、ジョンはパトロール魚雷艇の船長に任命されました。

ジョンは初めて、自身と同じくらいの年齢で庶民出身の兵士たちと泥臭い訓練と寝食を共にし、深い交流を持つようになりました。

自身が艦長を務めた魚雷艇の乗組員はジョンを合わせて13名で、本物の家族のような関係であったそうです。

しかし、1943年8月2日の日本軍輸送艦襲撃任務の途中、日本軍の駆逐艦と遭遇してしまい、日本の駆逐艦はジョンの魚雷艇に対して船体をぶつけてきました。

これによって、魚雷艇は沈没。

2名の死者と数名の重傷者が発生し、救助が来るまでの6日間、流れ着いた無人島で部下を励ましながら凌ぎ、リーダーシップを発揮しました。

救助されたジョンに待っていたのは、父親が用意した「英雄」という称号と世間の歓声でした。

しかし、ジョンは、最前線での生活と家族同然だった部下の死、救助に来てもらえるか分からない状態で水・食料がほとんどない島での遭難生活を乗り越え、精神的に大きく成長しており、父のコネで英雄扱いされていることを心の底から嫌い、その後は、コネが無く誰にも英雄扱いされることなく死んでいった庶民出身の兵士たちを讃え、本当の英雄は自分でなく、現在最前線で戦っている兵士たちや戦死していった兵士こそが本当の英雄であるというスピーチをして回りました。

ジョン、政治家へ

やがて、第二次世界大戦が連合国側の勝利で集結すると、ジョンは自分から進んで政治家を目指し、親の繋がりをフルに利用して当選を果たし、戦地から戻ってくる兵士のための住居の保証と年金の強化や最低賃金の値上げを達成するために奔走しました。

そんな、若いジョンの一生懸命に職務を遂行する姿は国民から熱狂的に支持され、1960年、ジョン・F・ケネディは最年少で大統領に就任しました。

キューバ危機回避

1962年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設、米軍がキューバを海上封鎖し、キューバに対し軍事侵攻を計画し接近船舶を撃沈することを発表。それに反発したソ連は、ソ連船舶に攻撃が行われた場合、確実にアメリカに対し核攻撃する事を宣言。

世に言う、キューバ危機です。

当然、基地建設の資材や人員は輸送船で運ばれてくるので、このままでは確実に核戦争です。

そこでジョンは、ソ連指導者フルシチョフ宛に直接書簡を出し、トップ同士でやり取りを行うという、当時では考えられない方法を取り、複数回の書簡の交換の後、米軍側はキューバ侵攻を取りやめ、海上封鎖を解き、ソ連側は基地建設を中止するということで合意し、核戦争の危機から脱する事に成功したのでした。

暗殺

キューバ危機を回避し、本物の「英雄」となったジョンでしたが、1963年11月22日、テキサス州ダラスでパレード中、車上で狙撃され、46歳という若さで亡くなります。

犯人はオズワルドという元海兵隊員の男が犯人とされましたが、オズワルドも逮捕後暗殺されてしまい、真相は闇の中です。

しかし、単なる金持ちドラ息子が戦場で大きく成長し、最終的にはアメリカどころか世界を救った英雄になり、若くして凶弾に倒れたというドラマのような一生を送ったジョンの名は、日々ドラマのようなダイナミックな光景が繰り広げられているニューヨークの空港にふさわしい名前でありますね。

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